陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

白紙の上で2つを並べて考える

白紙の上で2つを並べて考える

人は、どうしても偏ったものの見方をして、自分の考えと違うものを排除してしまう
人は、環境の暗示にかかりその暗示を固定化させてしまうようだ
これは、水鳥の子供などが最初に見た存在を自分の親と刷り込むことと似ている
今、日本人として生きている私たちであっても
アメリカ人として育てられたり、中国人として育てられたりするとそのようになる
仮に、北朝鮮人として育てられれば、ニュース報道の中に見る
あの熱狂して将軍様を讃え、狂喜する人たちとどれだけ違う存在となるだろうか

現在では、あの北朝鮮を理想の国家として見る人は、おそらくいないとは思うが
以前は、あの拉致事件ですら日本のねつ造でありでっち上げだと言い
かの国の指導者を尊敬すると公言していたような
国内の政党の党首もいたという現実がある

さらに付け加えるなら
その昔、天動説に対し地動説という、
今では当たり前のことを言っていた人たちが弾圧されていた事実がある
現代では、太陽系レベルの天体の動きを知らない人は少ないと思うが
しかし、地球を中心に太陽も星もまわっているという現実事態は
地球を中心、「主」として見るならば、それ自体が間違っているわけではない

他にも宗教指導者や歴史上の偉人に対する評価の反転現象はいっぱいある
健康法などでもそれまで常識とされていたことが覆ったことも多数ある

とにかく、基本は常に2択の中で蛇行している現状がある
物事を常に立体的に見ようと努力しなければ
当たり前のごとく自分自身の認識を正しいものとして生きていたことが
後になって、消してしまいたい過去ともなりかねない

イエスん弟子のパウロ(サウロ)の回心のような事もある
イエスの弟子たちを殺す側に立っていた
しかし、逆の見方ができキリストに帰依することで
歴史の偉人として名前が残っている
彼のような偉人であっても、環境の暗示にかかり
自己の認識の中から、なかなか出ることができなかった
イエスの言葉がその身に臨まなければ難しかったかもしれない

とにかく、目の前の現実だけを見ることなく
白紙の上に、今一度、自分の意見と対峙する意見を並べてみるべきだ
そして、事実だけを積み上げ
真実を探す努力が必要だろう

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