陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2022-12-04

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この社会は、どのように成り立っているのか?

フラクタルの森説明するなら、
宗教(世界観)があり、思想・道徳が有って、法律が決められ、社会が出来ている。


社会を見ていくと、法律・道徳・宗教という目に見えにくく、わかりにくい順番でその社会は支えられている。
単に弱肉強食で成り立っているわけではない。

何であれ、出ている結果に対して、その本質を知ろうとすれば「なぜだろう」「なぜかしら」と問いかけをする必要が有る。
キーワードは「なぜ」にある。
しかし、この言葉は便利な言葉であり、深く考えようとしても常にこの問いかけは効力がある。

社会

論理的考察

最初は、「どのようにして」という、具体的、手段、方法論に対する問いかけになりがちだ。
そして、次になぜと問いかけると動機とか目的とかの本質的な「何故」になる。
さらになぜと問いかけるなら、「なんで」「どうして」という意味合いが強くなり、その奥にある理由や原因を求めることになる。

子供のころには、この「なぜ」を何度も繰り返し、その本質を求めているようだが、大人になるにつれ、おそらく洗脳されるのだろうが、思考停止を余儀なくされ浅いところの「なぜ」でストップしてしまうようだ。
そして分かった気になっている。

要するに、多くの人は、この表の上段部分でしか考えない傾向性を持つようだ。
道徳とか宗教とか無視して結果ばかりを見てしまう。

基礎的、基本的な道徳教育や宗教教育をされずに育つと、唯物論、無信教の人たちが育っていく。
要するに、戦後教育で日本が強かった道徳とか宗教教育をつぶされてきたためだ。日教組などの左翼教育と連動して世界観が狂わされてきた。優しさだけが前面に出て結果としての平等が独り歩きして「なぜ」の探求がなおざりになってきた。

左脳的な教育ばかりになり、片方の思考しかできない人間を造ってきた。道徳、宗教教育は、どちらかといえば右脳的なものだ。

フラクタルの森では、すべてを陰と陽に分けようとする。
この左脳的な陽と右脳的な陰とに分けながら論理性の中に当てはめようとする。
左脳的にだけ優秀な人たちは、深く「なぜ」を掘り下げることができずに、陰の眼に見えにくい証明の不可能な不思議な世界に入ろうとしない。そのために両目で物事が見れず、全体で物事を考えることができなくなっていくのだ。

そのせいだろう。私から見て頭が良いと思われている人々が、不思議な判断をする。財政でもそうだ。
消費税をやめようとせず、国民に分配しようとして、そのためのつじつま合わせでさらに増税しようと消費税も上げたいらしいけれど、景気対策でやっているなら臭い匂いの元から断たなければだめだということぐらいわかりそうなもの。

ここで両目を開けなければだめだと言っているのは、「なぜ」を何度も何度も繰り返す中で両目が開いてくるといっているのだ。
弱肉強食の動物の世界に人間をレベルダウンさせて、創造主たる神が喜ばれるわけは、無い。

神の子、仏の子としての尊厳をどぶに捨てるなら、それなりの報いがやってくるだろう。

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