陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

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神とは・・・・

信仰心とも言えるが、信仰を持っていないと言い張る人は、おそらく居ないだろう。
ただ、何を信仰しているのかということ。
拝金教だったり、自分教であったり、その信仰の奥に悪魔教的なモノを漂わせている信仰もある。


そもそも神という概念をどう捉えているかということ。
神とは人智を越えた存在であるという認識は有るだろう。
ただ、エリート層の一部には、そこに自分(教)を重ねている者もいる。

グローバリストとは、言い換えるなら国際的なエリートたちである。
自分たちの力で世界をどのようにでも出来ると勘違いをして、金の力で全てを支配しようとする。
自分たちの知性的な優秀さに自信を持ち、金の力で陰謀を巡らせメディアを支配して庶民を自由にコントロールする。
唯物論、無神論的な見方をすれば、そのようになるだろう。

しかし、唯心論、有神論的に考えるなら、違った神の姿が見えてくる。
神なる存在が、ただ、自分たちと違った世界におられ、世界を支配されているという概念から離れ、共に存在している存在だということ。
これをフラクタル的な見方をすれば、私たちが住んでいる全宇宙自体が神の体であり、その神の体の中で生きているのが、私たちの魂という霊波であり、私たち自身である。
私たち自体が神の肉体の一部であり、神の細胞の一部である可能性が有る。
細胞の中の一部の組成要素であるかもしれない。

悪霊、悪魔信仰に足を踏み入れている人たちは、その本来の役目を忘れ自己主張を強め、拡張欲に翻弄されているガン細胞のようになっているのだろう。
自分だけ増殖し全体の調和を乱し、その周辺のバランスを狂わせて死滅に向かわせようとしているのかもしれない。

私の宇宙観は、このように、私たちの人体の不思議とリンクしている。
神とは、私たち自身を統御し、中心となっている意識であり、色んな細胞組織が有り、色んな諸器官が有るように、全てが合目的に、より良き存在になろうとしているのである。
神の子、仏の子ということは、この人間的な子供や孫の様なものではなく、神そのものの一部ではないかと見ている。
過去の悟っていると思われる宗教者たちの言葉から考えても、なぜ、自らの命を犠牲にしてまで、衆生の幸福に貢献しようとするのか考えるなら、それは、自と他が一体あることを確信され悟っておられたからではないだろうか。

この地上は、仮の世界であり、修業の為に設定されているという。
では、なぜ、そのような修行の世界が創られ、全宇宙から様々な魂たちがこの地上に生れ、魂の修業をしているのか。
言い換えるなら、トレーニングで体を鍛えているのと似ているのかもしれない。魂の足腰を鍛え、高き山に登るために筋肉や骨を強くしている。
それが、神の意志であり、私たちもその一部であるために、自分自身を鍛えるということに喜びを感じているのかもしれない。
ただ、脱落する者も出て、がん細胞のように反乱を起こす者も出てくる。

この世で目にする万象万物は、全宇宙の根源の神の意志に従い存在し、その意思を体現しようとして存在している。
その為に、私たちの潜在意識の中には、根源の仏、根源の神につながっている情報網が有る。この潜在意識の神なる部分にまで意識をつなげることが出来るなら、根源の神の持たれる力を引き寄せることも出来るということだろう。
ただ、つなぎ方を間違え地獄からの情報に神経網が繋がってしまうなら、それなりの結果を引き寄せることになる。

潜在意識



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