陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-09-04

Top / FrontPage / 2024-09-04

政治は、理想を捨て、何故ご都合主義に変わってしまうのか

誰でも大半は理想を胸に抱いて仕事に取り組もうとするが、実際、現実の中で、その理想は変質し、環境に流されて、その時代の潮流に流されて行く。


「思い」は崇高なモノから始まっていても「行い」の結果、その理念は薄らいで行く。

フラクタルの森

結局は、現状の結果をどう見てどう対処しようとするかだろう。
簡単に理想を捨て時代に迎合していく原因は、その理想の描き方だ。
その理想がどれだけ素晴らしくても、その結果から影響を受けて変質する。
その変質の形に二つあるだろう。
角度を変え、質を変え再度挑戦していく方向も有れば、単に折伏され変わっていくものも有る。
そのどちらに向きを変えるのかは、その人の世界観に有るだろう。
その世界観が真なるモノであり、それに対する確信度が強ければ挑戦を続ける方向を維持できるだろうが、世界観が空白だったり偽物をつかんでいるとそうはならない。

要するに、環境から加わる力には、アメの面とムチの面がある。インセンティブと処罰の力。
これらの力が、その意図の強さに関わらず必ず働き、その力で自分自身の発する理想の向きやレベルが影響される。

結局は、その人の持っている「世界観」の確信度、信仰の問題だ。
色んな思想哲学宗教が有る。
唯物論・無神論だと、この外部からの力が簡単に強く働く。
アメとムチが効果的に働くことになる。
そうではなく、唯心論・有神論の理解の強さが、その外部からの力をブロックする。
皆、理想は持っているけれど、その崇高な思いの力がどれだけの外圧に耐えられるかだ。

誰であれ、理想を持っている為に口ではきれいごとを言うけれど、どれだけの信念を持っているのか分からない。戦後の唯物論、無神論教育の影響を強く受けていると、簡単に日和ることになる。
これで、詭弁をろうすることが多くなり、次第にウソをつく習慣が身についてしまう。
それが今の多くの政治家たちだろう。
それが、波動として滲み出す為に何となくイヤな雰囲気を醸し出す。
次第に表情にも現れてくる。
口はゆがみ、目には光なく、濁ったものとなり、人を威圧するようなものにしかならないようだ。

理想を語る前に、正しい世界観を獲得するべきだということ。
真なる世界観を得ずして、正しい善悪の価値観を得ることは出来ない。
どうしても、表面的なモノで飾り防御し攻撃しようとする。

整形なども世間では流行っている。
表面をどう繕うかも大事だろうが、やはり、内から発されるモノに光が有れば、それは必ず見る人には伝わるだろう。
やはり、目に見えないモノ、目に見えにくいモノを見ようとするトレンドを強くしなければ未来は無い。
心の時代、波動の時代と言っても良いだろうが、正しい真理の世界観が有っての感覚である。
基礎的な宗教教育が不可欠であり、要するに唯物論的、無神論的な教育をするべきではないということだ。
現代社会では、「無宗教」だと公言する人が増えているが、せめて、そのような無神論的な発言が当たり前ではないようにするべきだ。
せめて、「世界は、神仏という人智を越えた存在に見守られている」ということが常識になるようにしたいものだ。



コメント


認証コード(3290)

powered by Quick Homepage Maker 5.1
based on PukiWiki 1.4.7 License is GPL. QHM

最新の更新 RSS  Valid XHTML 1.0 Transitional

備前焼