陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-03-06

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信じる、信じ込まされる

なにを信じるかということ。
この信じる、信仰とまで言ってよいかどうかは分からないが、このことは、重要な意味を持っている。


学ぶということとも深く関わることであり、未知の事などについては、信じて記憶し、自分の認識としなければ始まることは無い。
学び記憶し、経験して確証を得て知性を高めていく。
これらの認識は大切なことでは有るけれど、ある意味固まってしまった認識は、逆に困ったことも起こすこともある。
それまで常識として積み重ねたものが、新たな発見などで新たな常識などが出てきたときに、ブレーキとして働く場合だ。

事情は少し違うかもしれないが、死後の世界、あの世の世界、霊界の存在という認識でも様々なモノがある。
単純に有るか無いかに分けても、考えるならば、個人の人生だけでなく、社会全体の行き着く先の風景に大きく違いを産み出すだろう。
あの世が有ろうが無かろうが、そんなことは関係が無いという意見を言う人も居るだろうが、ただ、考えることをしていないだけだ。
想定問答を自分の中でしてみると、この人生観の違いは大きな違いとなって個人にも集団にも現われてくる。

結局は、どちらを信じるかということ。
認識の違いは、必ず対立する。
その対立、その違いをそのまま放置するという手もあるだろう。
なにをどう考えても自由だという意見もあるだろうが、その認識が事実とも違い、真実からも大きくかけ離れていたとするならば、大きな問題を生み出すことにもなる。

死後の世界の有無

「ない」と信じ込み、自由にやりたいほうだいのことをしてからあの世という世界に住むということだと、どういうことが起きるだろう。
そこでは必ず因果の関係で、受け取るべき責任とが発生するとするならばどうだろう。
霊界が存在するということは、神仏なる存在も在るだろう。
その価値観から判断される面があるとするならば、背負うべき責任もあり、受け取るべき褒賞の面もあるだろう。
結局、俗に言われる天国と地獄という世界につながるとするなら、何も考えず、やりたい放題のことは出来ないはずだ。
その為にも宗教ということがあり、この世を含めたあの世の世界の法則を学ぶということが、昔から必要とされている。

ただ、現代では、過去の遺産のような宗教認識が常識となり、色んな世界で固まり、それに固執して時代の変化などに適応できなくなった者同士が争うようなことも起きている。
ある意味、宗教選択の時代が来ているということだ。

今までの宗教を統合し新たな世界宗教が求められている。
その宗教が、最大の邪教となっている無宗教を駆逐する必要が有るということだろう。


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