陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-03-14

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学習と洗脳と暗示と信仰と常識

これらの言葉は、似ている。
私たちが生まれてから、様々なことを学び学習して、それぞれの認識として獲得するために、色んな経験をする。


民族の違い、習慣や宗教の違い、その社会の違いが個人の認識にも反映され、個性としても現れてくる。
当然ながら、善悪の判断の違いともなってくる。

その違いからくる常識というモノを認識に入れて、それらを立体的に見ることが出来なければ、例えば紛争などを抱え、話し合い議論する時に解決は不可能である。
この立体的に見るということは難しい。
自分の正しいと思っている事と、他者が正しいと思っている事と違っているなら、ただ、綱引きのように2時限の世界で引き合っているだけで強い者が勝つだけだけれど、第三の視点が必要だということ。

画像の説明
利害を離れ公正な立場で判断するために、善意の第三者の客観的な視点かが必要だということ。しかし、その視点に神仏を持ってこようとしても、その神仏という認識の違いもあって難しいことは理解できる。

画像の説明
ただ、自己という存在の上に偉大なる霊存在を意識できるかどうか。
自分たちの信じている神の上位概念を信じることが出来るかどうか。
人はどうしても、自分が理解できて信じている神さまにすがる傾向がある。
その神とは、民族神であり、自分たちを守ってくれる存在であるだろう。
しかし、その霊的存在だけでなく、人間であるリーダーが強ければ、それを神の位置に持ってくることもあり、自らを神として認識するようなこともある。
無宗教という邪教の中では、どうしても、自らを神として認識し、その地域の常識として在る宗教の仮面を冠り実効支配しようとする。
確かに、過去の宗教にまでなったモノの中には、実際のリーダーに神格を与えるようなものも有る。

そのようなこともあるので、神とは言え、造物主、創造主という存在意識まで行かない存在も在るだろう。
対立する存在双方に関わる神、双方の親である存在にまで至る必要が有るということだ。
要するに、神々をも生み出した親である存在をイメージできるかどうかだろう。
比喩として、全人類の親であるジジババという存在をイメージすることもあるが、やはり、造物主、この宇宙自体の創造にも関わられた存在を持ってこなければ意味がない可能性がある。

「メシアの到来で遂に人類は宗教紛争を終える」
https://www.youtube.com/watch?v=CqHKHbUoqyc&t=287s



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