FrontPage/2025-03-18
くどいようだが!
造物主(神)の存在をイメージできるかどうか。
「人間や生物たちは、自然に進化して、今、このような形で存在している」
このような話しだと、違和感なく受け入れられるだろう。
しかし、これが次のような話になると違ってくる。
「陶磁器の器たちは、自然に進化して、今、このような形で存在している」
このようになると、違和感が生まれてくる。
この違いは何かというと、粘土から作られる器とか、もっと高度化したセラミック製品もあれば、電気製品もあり、木材を使った家具とか家とかもあるが、それらには、人の思いと行いが加わっていることを私たちは知っているためだ。
その為に、自然に出来たなどと思う人など居ない。
もっと分かり易くするために、自然という言葉を類似するような言葉に置き換えるなら、もっとはっきりする。
自然とは、原始的にとも言えるし、独りでにとも言えるだろう。
ただ、自然の類義語には無いだろうが、偶然にと言ったらどうだろうか。
ダーウインの進化論では、独りでに進化してきたということにもなるし、偶然に人間は進化してきたということになる。
しかし、目の前に在る私の作った器が偶然にとか、自然に出来てきたなどと言う人はいない。
そうであるにも関わらず、私たち人類が、たまたま進化してきたということにされている。
これは、洗脳されている事であり、
これが、カルトでなくて何だろう。
私たちの目の前に在る便利なものたち、全ての存在の中には、人類の智慧が在り、思いと工夫と努力などが含まれているということは、周知の事実であるということは、全てに、人類の思いと行い、その工夫が在るということ。
これを生命ちに拡大して考えると、何者か、何らかの意思が、私たちの背景にある事が推定されてしかるべきだ。
ただ、私たちには、その造物主、創造主をイメージすることは出来ない。
どうしても擬人化して考えてしまう。
そして、生物の中で優秀な存在が、造物主であるかように考え、宇宙人によって人類が創られたなどと言う人たちも出て来る。
しかし、宇宙人自体も人類と同じであり、何らかの意思が投影されて存在しているだけだ。
過去、ペルーのアンデス地方の人たちは、その宇宙人こそ神であるとして信仰し祈り、人間を含めた供物をいけにえにして供えていたことも事実としてあるという。
おそらく、造物主も神も人間も、おそらく似ている。
おそらく、フラクタルとして似ている。
ただ、姿かたちではなく、私たちの魂も被造物であるならば、その私たちの心の奥に存在しているモノから想像可能だと思える。
簡単にするために、私が作る器に何が込められているかというと、ただ、この器を使い生活を便利にして豊かな生活を送って欲しいということである。
色んな企業が造っている商品やサービスでも同じだ。
中には考え違いをして、自分が儲ける事しか考えない出来損ないも出て来る。
しかし、被造物にはシンプルであれ愛に準じるものが含まれ、その循環が経済を生み出し、社会は進化してきた。
本来、全ての被造物には、「愛」が込められているということ。
全ての被造物には「お役に立ってほしい」という理念が込められ、それがそれらの存在意義として、存在が許されて、それが減少すると自然淘汰され、より素晴らしく有意義な者たちが生き残る。
そのように造物主の理念が具体化され、社会経済も成り立っている。
全てが、フラクタルとして、全宇宙の存在が具体化されているのだろう。
ただ、人間は、生命の維持の為もあるが、あまりにも自分に近づけすぎて全てを観るために正しく見ることが出来ない傾向がある。
命は有限でなく無限であり、造物主の意志と同じく、全てをより素晴らしいモノにしようとして生老病死の仕組みも、転生輪廻の仕組みも修業の場として与えられている。
苦しみなどに恐怖を感じ過ぎず、そこに含まれている神意を感じるなら、そこに在るモノは、造物主の愛である。
良識あるジジババが、子や孫に求めているものが、おそらく造物主たる神から発せられている願いに近いものだと思う。
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