陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2025-03-26

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なぜ、宗教が、人々から幸福を奪おうとするのか

この根本的な理由は、間違った世界観を持つ宗教が増えたために起きている事。
その邪教の最たるものは、「無宗教」です。


創造主、造物主を認めず、神仏なる存在も認めない世界観が蔓延し、単に頭が良く、ウソで常識を塗り固めることの出来る人間の増殖を許してしまったために起きている事。
宗教は、霊的な目に見えない世界の説明が必要な為に、ウソが付き放題だということに始まりが有ります。
ただ、これは宗教に限らず、政治や経済、世界情勢の中にも在り、ウソがまかり通っている為に、ウソをつかなければ損だというような風潮が出来あがっている為でしょう。

政治家のウソ、専門家のウソ、学者のウソ、メディアのウソ、様々なウソが恥ずかしげもなく広げられています。
もちろん、このような限られたサイトで言っている、私が正しいと思って発信している事の中にもウソは有るかもしれません。おそらく、あるでしょう。
正しいと信じている事の中にも間違いがある可能性は大いにあります。
当然ながら、私が比較的正しいことを言っていると思っている人々の言説にもあるでしょう。

その差がどこに有るのだろうかと考えると、見えてくることは、信仰心。本当の信仰心をもっているかそうでないかの違いです。
本物の信仰心と、偽物の信仰心。
神仏、造物主の存在が心の中に在るかどうか。
その主なる神たる位置に自分や自分たちの利益が入れ替わっている場合がある。
要するに、神なる位置に悪魔を居座わらせている事があるのです。

世界情勢の中に在るウソは、その視点で見れば浮かび上がってきます。
ゼレンスキーのウソ、バイデンのウソ、EU指導者たちのウソ、西側諸国メディアのウソ、専門評論家たちのウソ、ウソではなく間違っているだけなのか、その違いは、おそらく認識はされていないでしょう。
麻原のウソ、文鮮明のウソなどは、ハッキリとしたウソではあるでしょうが、何度も口にしているとウソもその中では事実となるのでしょう。

そんな風に考えると、私の言っている正しいと思っていることも同等の事でしょうが、ただ、違いがあるとすれば、常に正しさを求めていることです。基本、いつも考えようとしていることがあります。
と言っても完全ではなく、その正しさを自分の理解に引き寄せている感は在るでしょう。
画像の説明

そういった環境の中に在りながら、より正しい正しさを見極めるために必要なことは、客観的に見る事であり、そんな客観視を求めるのに自分の味方をする意見ではなく、自分の利害を離れた神仏の視点が必要だということ。
この視点が、「無宗教」という邪教の最たるものには求めることが出来ないからです。ここでは、左脳的にだけ優秀な人達が活躍できるでしょう。
右脳的に優秀かどうかは、悟り、悟性感性にも関わり難しいけれど、例えがトランプやプーチンの演説や、これまでやってきたことを見れば、しっかりとした信仰心が見れます。
感動させるものがあるのです。
神仏の視点、造物主の視点が内にあれば、ウソで固めてしまう事は不可能です。

無知の知」を素直に認め、人智を越えた偉大なる存在、造物主や神を認めるべきなのに、唯物論を蔓延させ、無宗教という邪教を広げてしまったために、社会全体が免疫機能を失っているのです。
まるで、消毒が行き届いた給食センターなどでO157などが暴走する事とも似ているでしょう。
正しい基準が消し去れれているために、邪教が蔓延しほうだいになるのです。無宗教という世界観の中では、悪霊や悪魔が増殖し放題になります。
宗派の別なく、基礎的な宗教理念を広げるべきでしょう。

それが難しいなら、私の「フラクタルの森 玄明 陰陽学」幻冬舎刊で書いたように、神仏の位置に別の分かり易い存在を持ってくることです。

最高に良識あるジジババを持ってくること。
自分たちの家族だけの小さなジジババではなく、全人類を我が子や孫のように見ることの出来る偉大なるジジババです。
その立場から、あらゆる事実を集め考えるなら、ウクライナ問題もパレスチナ問題も解決が可能だと信じます。
もっと言うなら、私たちが信じるべき主たる神の存在も見えてくると思う。



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