陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

FrontPage/2024-04-19

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地震対策とクモの糸

地震が色んなところで起きている
起きるたびに対策が呼び掛けられるが
はたしてそれでいいのだろうか


地震のメカニズムも解明されているとは言えない
プレートテクトニクス理論も有れば
水蒸気爆発説も、地球意識の反発説もある
地震兵器説さえある
様々有るけれど
因果関係の中にあることは間違いがない

運命論的に考えると、どんな原因にしろ
ある意味どうしようも無い
人為的にしても天変地異であろうと原因は造られている
運命であろうと突発的な事であっても起きることは起きる

交通事故で考えても、そうだけれど
事件にしろ事故にしろ被害を受ける人と運よく避けれる人が居る
どちらにしろ運命として受け入れるしかないのかもしれない

昔から仏教ではカルマ。業のとらえ方に二つある
共業、不共業(ぐうごう・ふぐうごう)
基本、原因と結果の法則だが、個人レベルの事と集団レベルでのことが有るということ
個人の運命は、過去世をも含めた原因結果の法則に左右される
当然、集団レベルのことも有る
ところが、新たに作られるカルマ〈業〉もあり、消えるカルマもあるだろう

この三次元世界は、宗教的に言うならば修業の場だということ
量子論的に言うなら、波動の世界であり、原因結果の中で振動し、様々な情報が行き来しながら変化をしている
修業が及第点を取ることも落第点を取ることも有る
振動が収束する場合もさらに振動が激しくなる場合もあるだろう

運の良し悪しが言われても、そこには原因と結果の法則がある
何事でもそうだろうが、運を良くするための努力はいる
運を良くするために因も縁も必要だ
その結果としての報いを受けることになり
例えどんな災害の中に置かれても
その表面だけを見るなら、運が良いとか悪いとかいう評価になる

トータル的な運命のメカニズムの中には、霊的な世界の意志も関わっている可能性可能性がある
偶然と見える中にも必然は有る
その霊的存在たちの意志の中で最大の力を持たれているのは、創造主
神ではあるが、その神という言葉の中には色んな認識があり
その反対のモノに神格を与え依拠しようとする者たちも居る

考えてもみよう
最高最大最善最強のジジババが居て、全人類を我が子と見ているような存在が、霊界から見ていて、多くの子供たちが同じ災害の中に居たとして、どの子に恩寵を与えるだろうかと

運よく生き延びる人を選ぶことに、どのような判断が及ぶだろうかと考えると難しいけれど、この世が修業場で有るなら何らかのモノが有るだろう
それが何か分からないが、小さなことでも押さえておき必要が有るということ

その基本に有るのは、やはり信仰心
その中身だろう
それが無ければ、原因と結果のカルマの中でただ流されるだけの生き方しか出来ない可能性が有る
おそらく、神々から見て希望の光がそこには見えない可能性が有る
希望が無ければ、ただ、流されているのを見ているだけかもしれない
希望が有れば、ただ、クモの糸のような細いロープでも投げ入れられることもあり得るだろう



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