陶玄郷

フラクタルの森で薪だけを使い備前焼を焼きながら迷走、瞑想している玄明のホームページ

正しき心の探究

正しき心の探究

この世界が、天(仏神)の願いによって作られていることを信じることが出来るだろうか?
天(仏神)のお心が込められている世界であるから、
その願いを投影されている私たちの心の中にも
天(仏神)のお心と似たものが込められているのではないのだろうか

しかし、私たちは、それを忘れ、日々、個人的な思いで生きている
時折、仏神と同じ心が前面に出たとしても、単なる優しさだけが暴走し
周りに迷惑をかける左翼思想となってもいる

自分たちの目先の都合で生きているのが現実なのではないだろうか
幼少時にはもちろん大人になってもその傾向性は残っているがゆえに
訴訟は絶えず、紛争は絶えず、戦争も絶えることがないのでしょう

天(仏神)を認めることが出来ない人たちは
時折のぞく神性により理想をイメージすることが出来るが
天(仏神)を認めることが出来ないゆえに、自分自身が主なる神となってしまう
マルクスを信奉する無宗教という宗教(世界観)を持っている人は
その世界観こそ恐れなければならない
信仰無き人たちが歴史の中でどれだけ多くの人たちを粛清し殺してきたことだろう

常に「正しき心の探求」をすることだ
天(仏神)ならどのように考えられるだろうか?・・・・と
きっと、これが、信仰というものだ

その時代環境の中で
この天(仏神)の思いと重なるような指導をされているところが正教であり
その時代に降ろされている天(仏神)の言葉なのかもしれない
いろんな宗教が今もあるが、この宗教を選ぶにしても
自分の都合で選択してしまうのも私たちなのだろう

さらに、正しき心の探求が必要なことは言うまでもない
自分の都合で考えるのではなく、
できるならば、地球神に意識を置いて、地球の裏の人も、自分たちに敵対している人も
全てわが子と見ておられるような存在に意識を合わせるべきだろう

そもそも、天は我々に何を願いこの宇宙を創られたのか
優しいだけではない、厳しさもあるだろう
この地上に現存する最高の父母以上の意識で子育てされている存在なのだろう
お賽銭などの交換条件に応じてくれるような存在でもない
天(仏神)を、甘やかしてくれる愚かな親のように見てはならないと思う

価値有るものを支えているものは、目に見えないモノの中にあるが
最高に目に見えにくいものは天(仏神)の存在であり
価値を支えてくれている最高の「信用」を投げかけてもいる存在でもある

その信用を失うときに株が大暴落する以上の現象も起こる
天変地異も天(仏神)の意思表現として有るのかもしれない

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