FrontPage/2023-01-18
正しさとは
色んな意見が有り、それが接触する場所でいろんな軋轢が生まれる
それぞれの正しさがぶつかり合う
最近、いろんなことで気になっていることが有るけれど、つくづく思うのは次の図の大切さだ。
NHKの色んな報道を見ていても、NHKの人たちの思っている正しさで報道する
徴用工問題(慰安婦問題)、福島の風評被害問題、など色んな報道姿勢を見ていても思うことだが、
風評被害を生み出し続けているのは、その報道姿勢だと思うのだ。
その正しいと思っていて、何とかしたいと思っている姿勢の中に、自我が入り込んでいる。
要するにマッチポンプという形だ。
自分で火をつけておきながら、自分でその火を消そうとして頑張る。
第三の選択もあり得ると思う
有った、無かった、言った言わなかったのような不毛な議論に報道機関としては立ち入らず
無視する方法も有る
本当は、そのようなことは無かったのに、議論することで
あたかも有ったかのように映る
朝日新聞社が事実と異なっていたと謝罪して解決しているはずの従軍慰安婦問題でも
まだ、消えていない
朝日新聞の思い込みが、いまだ息をしているような形で残っている
私は、次の図でも表現しているが
それぞれの意見の中には、良い子、悪い子、普通の子がいる
これらの二つの図を合わせて考える必要が有るように思った
これらの正しさを考えると、明確に線引きしにくいだろうけれど、間違いなく有ると思う。
NHKの報道は、正面切って非難しにくいけれど・・・
政府の防衛費のための増税のことでも同じだが、一線を越えていると思う。
しかし、私の様なものが、なぜそこまで言い切ることが出来るのだろうと考えると、不思議ではある。
考えると、昔読んだ三島由紀夫の本の中に出ていたことを思い出した。
はっきりと不良とわかっている人間が行う悪と、そうでない者の悪と、どちらが重要な問題かという話である。
知って犯す罪と、知らずに犯す罪の話もある。
知っていて犯す悪は、その中に多少なりとの自責の念もあり、反省する時に至っては比較的簡単に反省できるけれど、自分が正しいと信じ込んでやっているような悪であるなら、いくら説明しても解からない場合がある。
死後の世界に天国地獄が分かれているという。
好んで地獄に行きたいと思う人は居ない。
しかし、今という時代は、半数以上の人が地獄に行かなければならないという。
地獄に行くということは、「間違った正しさ」が、限度を超えて多いということだ。
NHKの報道姿勢に問題が有ると思っているが、もちろん職員自体がそうだとは思っていない。しかし、その正義面した態度が及ぼす影響に問題が有ると思うので、私は受信料を払うことを拒否している。
被害を受けている人に寄り添おうとしながら、優しさを演じながら、過ぎた優しさで、更に奈落の底につき落そうとする傾向が見れるときもある。
しかも、潤沢な資金で番組つくりは魅力的だ。CMもなくニュースなども見やすい。一時は、それでも見ているのだし払うべきなのかと感じて払っていた時期もある。しかし、日本低迷の原因にもなっているし、当時、お金に苦労している時期でもあり、そのNHKの及ぼしている悪影響を考えると、とても理不尽に思えたのだ。
私が、なぜここまで言えるのか、おそらく私の中に、より客観的に見ようという姿勢が入っているからだろうか。
それも、宗教の世界を学び、信仰心を学び、神仏の視点から見ようと努力しているせいなのかもしれない。
今、私が得ている信仰とは、訓詁学ではない。ここにこう書いてあるとか、書いてないとかではない。世の中の常識も無視しているわけではないけれど、常識をどうしても疑わざるをえない面が有る。
NHKの大河ドラマの中にも見過ごせない世界観が有ったりもする。
豪華な出演者で全国民に与えている暗示も恐ろしいものがある。
石川五右衛門を義賊のように扱っていたものがあったが、私の中ではトラウマみたいになっている。まるでオウムの浅原のような宗教家を気取っている人間を持ち上げるのと同じだ。問題が表面化し、犯罪が露呈する前は、いろんな著名人がオウムを持ち上げていた。NHKは、新興宗教自体を隅に追いやっていたので番組で扱ったことは無いだろう。
しかし、石川五右衛門を義賊として描く罪は、様々な悪を応援することになる。
その悪を応援するために、少額であれ資金提供するわけにはいかない。
民営化するなり、国営で規模を縮小した形で税金の範囲内で運営するべきだろう。
様々な判定を直接働かせることが出来るからだ
コメント